数年前、神戸出張の帰りに読んだ
あるエッセイが私の心を捉えます。
「人間は堕落する」
ちょっと前まで、真面目に自分の仕事をしていたはずの学者や研究者が、テレビにしばしば登場するようになる。必ずしも真面目な番組ではない。なんかマルチタレントまがいの立ち回りをしているのである。
おお、コイツも見事に堕落したな。
私はある種の感動をもって眺める。人間というのは、絵に描いたように堕落するものだ。このことを、今さらながら、凄いことだと思うのだ。
もし指摘すれば、彼らは、生活のためとか大衆のためとか、言い訳をするだろう。しかしそんなのはウソである。いかにも嬉し気にそれらの仕事をしているからである。こりゃあラクでいいや。そんなところではなかろうか。
一目瞭然なのは、その顔である。緩んでくる。崩れている。
内省する人間に特有の緊張感が失われているから、ごまかしようがないのである。堕落している人間は自分の堕落に気がついていないというのが、やはり凄いと同時に怖いところだ。
(週刊新潮 人間自身 184回)
残念なことに、このエッセイを書かれた池田晶子さんは、
翌週の連載を最後に、若くしてこの世を去ってしまいます。
総じて素敵な仕事をしている方は
なんとも言えない魅力的な顔をしているように思います。
実際そのような方は多くいらっしゃいます。
そんな方を見るたびに、あるいは、そうでない方を見るたびに
池田さんのエッセイを思い出し、
自分が、緩んで崩れた、醜い顔をしているのではないかと
心配になってしまのです。
自分のことは、なかなか分からないものですから
私がそんな顔をしていた時は
窘めていただけるとありがたいです。
今も私は、切り抜いた記事を、机の前に張っています。
<池田晶子 『人間自身—考えることに終わりなく—』 新潮社>